役者編

歌舞伎という名称の由来は、「傾く」の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代のおわり頃から江戸時代のはじめ初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることをさした語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年-1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。

この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。 寛永年間(1624年-1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字にかわって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。

明治の名優九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が古典の型を整備。大正には二代目市川左團次が埋もれていた古典の復活を行い、上方では初代中村鴈治郎が和事の芸を大成するなど従来の作品の見なおしも行われた。昭和には六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門、十五代目市村羽左衛門、二代目實川延若、三代目中村梅玉など多くの名優が活躍し今日の歌舞伎に大きな影響を与えた。その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈するかたちで二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界の封建制的な部分に反発して昭和6年 (1931) には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立される。

戦後の全盛期をむかえた1960〜1970年代には次々と新しい動きがおこる。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。昭和40年(1965年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され(保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。

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